LOGINリムジンの低いエンジン音が不意に途絶えた瞬間、まるで耳の奥に幕が下りたような、しんとした静寂が車内を包み込んだ。
窓の外を流れ去っていた都会の光の帯は止まり、後部座席には、どこか粘りつくような重苦しい闇だけが淀んでいる。 「……着いたぞ」 隣に座る男の、低く、地を這うような声。それだけで、私の肩はびくりと小さく跳ね上がった。 膝の上で指が白くなるほど握りしめていた彼の上着――先ほどのパーティー会場で、さらし者にされた私の惨めな背中を、無言で覆ってくれたジャケット。そこからは、征也の匂いがふわりと立ち上っていた。 乾いた煙草の香りと、鼻の奥をくすぐる清涼感のあるミント。その奥に微かに混じる、体温に溶けたムスクの残り香。その香りにどこか安らぎを感じ、肺いっぱいに吸い込んでいた自分に気づき、私は慌てて浅い息を止めた。 「あの、ここは……」 見覚えのあるお屋敷ではない。車窓から見えるのは、先ほどまでいたホテルの裏口にある、VIP専用の重厚なエントランスだった。 「降りろ」 私の問いかけには目もくれず、征也は短く命じると、先に車を降りた。 ドアマンが恭しく開けた扉の向こう、夜風にタキシードの裾を揺らして立つ彼の背中が、逃げ場を塞ぐような圧力を放って私を待っている。 逆らうことなんて、最初から許されていない。私は震える足に力を込め、高いヒールをアスファルトの上に下ろした。 案内されたのは、ホテル最上階に位置する特別な部屋だった。 直通エレベーターが上昇していく数十秒の間、私たちは一度も視線を交わすことはなかった。 鏡のように磨き抜かれた扉に映るのは、あまりにも不釣り合いな二人の姿。完璧な仕立てのタキシードを纏った若き支配者と、彼から借りた大きなジャケットに埋もれ、幽霊のように俯く没落した令嬢。 階数を示すパネルの光が、無機質に切り替わっていく。 逃げ場のない密室に充満する彼の気配に、喉が張り付くように渇き、うまく呼吸が整わなかった。 「入れ」 カードキーをかざし、重厚な扉が音もなく開かれる。 一歩踏み出した瞬間、足首まで埋まりそうなほど毛足の長い絨毯が、涙で視界がぐしゃぐしゃに滲む。顔を上げることさえできず、ただ膝をついた大理石の床を見つめていた。硬い冷たさが膝頭から伝わり、骨の髄まで染み込んでくる。 しんと静まり返った広いリビングに、みっともない嗚咽だけが吸い込まれていく。 やがて、頭上から低い声が落ちてきた。「……いいだろう。なら、法的にも俺のものになれ」 有無を言わせない響きだった。「今この瞬間から、お前のすべては俺が管理する」 顎を掴まれる。骨ばった指が容赦なく肉に食い込み、無理やり上を向かされた。 征也と目が合う。 凍えるほど冷ややかなのに、瞳の奥だけがじっとりと暗く濁っている。その熱に射すくめられ、喉がひきつった。「サインしろ」 目の前に万年筆が突きつけられる。 受け取った軸は鉛のように重く、指先の震えが止まらない。ペン先を紙に落とす。『月島 莉子』 カリ、カリ、とペンが紙を引っ掻く音が、やけに大きく響いた。 この名前を、自分の意思で書くのもこれが最後かもしれない。次に名前を書くときは、違う名前。彼の影として、彼の牢獄の中で生きるための名前になってしまう。 最後の一画を書き終え、ペンを置いた。 その直後、腕を強烈な力で引かれる。 バランスが崩れ、景色が流れたかと思うと、いきなり唇を塞がれていた。 慈しみなんてない。喰らうような、乱暴な口づけだった。 彼の舌が、私の口内を荒々しく蹂躙し、支配の証を刻みつける。 苦しくて、酸素が足りなくて、それなのに胸の奥が甘く疼く。 母を助けられるという安堵と、自らの魂を差し出したという絶望が混ざり合い、私の感覚を麻痺させていく。 首元のサファイアが、二人の身体の間で押し潰され、胸骨に硬く、鈍い痛みを与えた。「これで……お前はもう、どこへも行けない」 唇が離れた直後、耳元に熱い息がかかる。 鼓膜を震わせる低い声。逃げ場のない宣告。 鋼のような腕に閉じ込められたまま、私はただ、小さく震え続けることしかできなかった。
鋭い破壊音と共に画面が蜘蛛の巣状にひび割れ、蒼との繋がりが物理的に砕け散る。「何を……何をするの……っ!」 私は震える声で叫び、彼に食ってかかろうとした。けれど、征也は私の細い手首を掴み、強引に自分の方へと引き寄せた。「っ……痛い……!」「他の男に、泣きついて情けを乞うのか。それも、俺の目の前で」 彼の瞳は、激しい怒りに燃えているようにも、あるいは言葉にできないほど深い悲しみに沈んでいるようにも見えた。掴まれた腕から、彼の激しい脈動が直に伝わってくる。「だってお母様が……! お金がないと、死んじゃうの! あなたには関係ないでしょう。あなたは私を苦しめるのが目的じゃないの。それなら放っておいてよ……!」「関係ないだと」 征也の顔が近づく。鼻先が触れそうな距離で、彼の荒い呼吸が私の唇をなぞり、肌を焦がす。「お前の絶望も、お前の涙も、お前が流す血の一滴まで、すべて俺のものだ。他の誰かに、その欠片も渡すつもりはない」 彼は私を突き放すように離すと、サイドボードから一通の書類を取り出し、テーブルに叩きつけた。 そこには、これまで交わしてきた家政婦としての書類とは比べものにならないほど、重々しい気配を纏った書面があった。「……これは……何……?」「婚姻届だ」 その言葉の意味を頭が拒絶し、私は声を失った。「……結婚? あなたが、私と……?」「勘違いするな。これは救いではない。お前を永遠に閉じ込めるための、誓約だ」 征也は一本のペンを私の前に放り投げ、冷たく言い放った。「十億円。今すぐ、お前の母親の転院先と医療チームを手配してやる。この国で望みうる最高の治療を、俺の名において保証しよう。その代わり――」 彼は一歩、また一歩と私を追い詰めていく。背中
視界がぐにゃりと歪み、立っているのがやっとだった。膝ががくがくと笑い、床に崩れ落ちそうになるのを、壁に爪を立てるようにして必死で堪える。 お母様が、いなくなってしまう。 私を愛してくれた、世界でたった一人の大切な家族。私のせいで家も名誉も奪われ、病床に伏してなお私を気遣ってくれたあの人が、ただお金がないという理由だけで、冷たいベッドの上で息を引き取ってしまう。 「……待ってください。必ず、用意します。何とかしますから。だから、お願いです、治療を止めないで……!」 なりふり構わず受話器に向かって縋る私の視線の先で、征也がソファーに深く腰掛け、足を組んでこちらをじっと見つめていた。 彼は何も言わず、ただ琥珀色の液体が満たされたグラスをゆっくりと傾けている。その瞳の奥には、私の絶望を静かに眺めるような、透き通った冷たさが宿っていた。 彼に、助けてと頼む? いいえ、そんなことできるはずがない。彼は私を屈服させ、壊すためにここに置いているのだ。私の苦しみを見つめることでしか己を満たせない男に、母の命を救ってくれなんて、どの口が言えるのだろう。 真っ白になった思考の隙間に、一人の名前が滑り込んできた。 蒼くん。 神宮寺蒼。彼は、困ったことがあればいつでも助けると言ってくれた。彼なら、大きな財閥を背負う彼なら、この泥沼のような絶望から私を掬い上げてくれるかもしれない。 私は逃げるように通話を切り、震える指で履歴から蒼の番号を叩いた。 呼び出し音が、鼓動に合わせて永遠のように長く繰り返される。心臓が喉から飛び出しそうなほど激しく打ち鳴らされ、指先は氷のように冷たくなっていた。 『莉子ちゃん? こんな時間にどうしたの。何かあった?』 繋がった。蒼の穏やかで、包み込むような温かい声。その響きに触れた瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、熱い涙が溢れ出した。 「蒼くん……助けて、お母様が、お母様が死んじゃう……っ。十億……十億円必要なの。お願い、私、何でもするから、一生かけて返すから……助けて……!」 『十億……。分かった、落ち着いて。僕の個人資産と、父に掛け合えば何とかできる。今すぐ君のところ
煌々と灯るエントランスの明かりが、網膜を刺すように痛かった。 深夜の静寂に包まれた天道邸は、どこまでも広くて冷たく、足を踏み入れるたびに自分の輪郭が薄れていくような心細さに襲われる。 私の首元では、体温を吸って生暖かくなったサファイアの石が、一歩歩くごとに鎖を揺らし、鎖骨を小さく叩いた。まるで、逃げ出すことを許さない重石のようだった。「……戻ったぞ」 背後で、征也の低く抑えられた声が空気を震わせた。 彼は私を追い越してリビングへ向かう。その広い背中から漂う、冬の空気のように研ぎ澄まされたコロンと、微かな煙草の残り香、そして彼自身の熱を帯びた独特の匂い。それらが逃げ場のない室内で混じり合い、私の肺の奥まで重く沈み込んでくる。 私は、彼の傍らに置かれた従順な「所有物」として、その背中を追うしかなかった。 その時だった。 リビングのサイドボードに置いていたスマートフォンが、激しく震え、静まり返った闇を切り裂くように鳴り響いた。 こんな時間に、誰が。 嫌な予感が、冷たい指先のように背筋を這い上がっていく。胸の奥が、警鐘を鳴らすようにドクドクと不規則な拍動を刻み、喉の奥が引き攣るように乾いた。 画面に表示された名前に、私は息を呑んだ。『病院(救急外来)』 頭の中が、真っ白なノイズで埋め尽くされていく。 震える指を何度も滑らせ、ようやく通話ボタンを押した。耳に押し当てた端末の冷たい感触さえ、ひどく遠い世界の出来事のように感じられた。「……はい、月島です」「月島莉子さんですね。お母様の容態が急変しました。心臓の機能が急激に低下し、肺に水が溜まっている状態です。現在、集中治療室で懸命な処置を行っていますが……非常に厳しいと言わざるを得ません」 受話器の向こうから届く医師の淡々とした声が、逃れようのない判決のように耳の奥へ突き刺さる。「そんな……、だって、最近は体調も良くなっていたのに……」「今すぐ、こちらの病院が
ホテルからの帰り道も、沈黙だけが続いていた。 首元の重みだけが、先ほどの出来事が夢ではないことを絶えず告げている。 冷たかったはずのサファイアは、いつの間にか私の体温を吸って生暖かくなっていた。 まるで、私の身体の一部になり代わろうとする寄生虫のように、肌に馴染んでいる。 屋敷に戻ると、深夜にもかかわらず、エントランスの明かりが煌々と灯っていた。 車寄せにリムジンが滑り込むと同時に、数名の使用人たちが駆け寄ってくる。 征也に促されて車を降りた私は、無意識に首元のネックレスを隠そうと、手が動いた。 あまりにも目立ちすぎる。 これを見れば、誰もが私と彼との関係を――単なる雇い主と家政婦ではない、もっと歪で背徳的な繋がりを察してしまうだろう。「……隠すなと言ったはずだ」 私の手首を掴み、征也が冷たく言い放つ。「それは見せるためにつけているんだ。この屋敷の人間全員に、お前が誰のものか知らしめるためにな」「そんな……恥ずかしくて、顔を上げられません……」「恥? 今さら何を言う」 征也は私の手首を離すと、顎をしゃくって屋敷の入り口を示した。「行け。お前の部屋はもう用意させてある」「え……?」 私の部屋? 通いの家政婦である私に、部屋など必要ないはずだ。 まさか、住み込みということなのだろうか。 呆然とする私の背中を、征也の手が強引に押した。「言ったはずだ。二十四時間、俺の管理下に置くと。……今日からお前はこの屋敷で暮らすんだ」「聞いてません……! お母さんを一人にするなんて、そんなことできません!」「母親の世話なら、腕利きの看護師を三人手配した。お前が下手な介護をするより、よほど快適に過ごせるだろうよ」 用意周到すぎる。 私の逃げ道を、一つずつ丁寧に、そして確実な力で潰してきているのだ。 反論しよう
「嫌なら外してみろ。違約金をすべて払って、この部屋から出て行けばいい」 試すような響き。 そんなことができるはずがないと知っていて、私を追い詰めているのだ。 母の命も、これからの暮らしも、すべては彼の手のひらの上にある。 この首輪を外すことは、生きることを投げ出すのと同じ意味を持っていた。「……できません」「聞こえないな」「……外せません。私は……あなたの、持ち物ですから」 屈辱に視界が滲む。 けれど、それを聞いた征也の表情は、歪むほどの喜びに染まった。 彼は満足げに目を細めると、私の首筋に顔を埋めた。「んっ……!」 熱い吐息が、敏感な肌に吹きかけられる。 背筋を稲妻のような痺れが駆け抜けていった。 怖い。悔しい。 なのに、どうしてこんなにも、身体の奥が熱くなるのだろう。 彼に縛られているという事実が、彼に支配されているという証が、空っぽだった私の中身を埋めていくような、恐ろしい充足感。「いい子だ」 征也の唇が、首筋に触れた。 キスではない。獲物を味わうように、舌先で肌を這う。 昨夜つけられた赤い痕――しつこく残る印の上を、なぞるように。「ひゃ……っ、や、やめて……ください……っ」「暴れるな。鎖が擦れて傷になるぞ」 嘘だ。 彼は私が傷つくことなんて、微塵も気にしていない。 ただ、私が自分の腕の中で翻弄され、情けない声を漏らす姿を見たいだけなのだ。 征也の手が、ドレスの背中のファスナーにかけられた。 ジジジ、と布が擦れる音が、静まり返った部屋に大きく響く。「あ……っ!」「大人しくしていろ。……今日は一日、随分と気を張り詰めていたようだからな」 ファスナーが下ろさ







